静商野球部グランド  バックネット秘話

      「静商野球部グランド  バックネット秘話」

静商野球部は昭和3年(1928)に創立、昭和10年(1935)今から80余年前に現在地に校舎が移設と同時に、新しいグランドに鉄製のバックネットが完成した。
爾来、数多くの優秀な選手が巣立ち、甲子園では優勝準優勝等数々の優秀な成績をあげ、全国に古豪校の栄誉ある名称を冠したるのも、誕生以来、安倍川の川風と緑豊かな木々に囲まれて、野球部員の元気な掛け声に包まれながら、今も昔と変わらぬ姿のこのバックネットがあったればこそである。
 そんなバックネットにも今日まで平穏な時ばかりではなかった。
太平洋戦争末期の昭和20年6月、米軍機の静岡市大空襲で、静商は木造校舎のすべてを焼失したが、バックネット、講堂、体育館、武道場だけは戦火を免れた。        しかしそれも束の間、昭和21年には下の記事の様な難題が降りかかって来た。 
野球部OB上坂浩通氏の命を懸けた勇気ある行動があった史実を、どれほどの方々が存じているだろうか。                                静商の歴史遺産として後世に受け継がれるべきではないでしょうか。
野球部諸君、又、将来「SEISHO」のユニフォームを夢見て入学する諸君は、野球部先輩の命懸けで守ったバックネットであることを常に心して、練習に励み素晴らしい成績を上げてほしいと願う。

  〇上坂浩通氏のプロフィール (静商同窓会関西支部80年記念誌から引用)
   ・昭和16年(41回)卒 3年生時野球部主将を務める。 ・卒業後は旧満州の社会人野球「昭和製鋼所」で活躍
・終戦で帰国、日本軽金属(㈱)入社、母校野球部監督を2年間務める。
・関西に転勤して定年後は画家として活躍、晩年迄絵筆を握った。母校正面玄関の大絵画「明日の希望を(大陸
 の回想)」を制作贈呈 
・同窓会本部副会長及び関西支部長を長年務めた。(平成17年(2005)没 享年82才)

    

            「バックネット事件」(静商百年史から)

野球といえば、あの「バックネット事件」を忘れることはできない。元野球部主将上坂浩通(昭16)の思い出である。  
 昭和二十一年二月中旬のことである。片山清吉さん(明43)が息せききって私の家にやってきた。
「おい上坂、大変なことになった。県の命令で、あのバックネットを進駐軍に寄付するため、すぐ移設工事にかかるとのことだ」片山清吉、渡辺佳(昭11)、粳田保(明11)と私の四人で県の渉外課に行き、陳情というか、抗議というか、長い間話し合ったが、ただ「進駐軍よりの命令だから、敗戦国の日本ではどうにもならない、むげにことわれば命にもかかわることだし、あきらめてくれ」と話にならない。
そこで、進駐軍の本部(現駿府公園、当時は三十四連隊跡)に、一番年の若い私が直接談判に乗り込むことになった。                           駐屯地の歩哨に自動小銃をつきつけられたりしたが、幸い後輩と名乗る通訳の方に助けられ、この交渉を有利に運んでもらった。                      隊長であるキャンベル中尉(中佐?)が、そんなに大切なバックネットであるなら現物を見て判断したいということで、私は護衛の兵隊に連れられ、隊長と共にジ
ープに乗った。                                                                         通訳を長島勝三さん(明35)にお願いして「今、日本は戦争に負け、全国民がどん底の状態でいる。                                  あなた方の国は、野球というものが国民をどんなに力づけるかおわかりでしょう。                                           この打ちしおれた状況下で、せめて立ち直りのためにベースボールをやらせてほしい」と懇願した。                                   黙って聞いていたキャンベル隊長は、そこにいた佐藤校長や私共ひとりひとりの手を握り、                                      「よくわかった。こんなに立派な伝統を持った野球部のバックネットを取るわけにはいかない。君達も早く敗戦のショックから立ち直って、立派な野球部を作り、全日本の大会
で優勝してくれ」そこに居並ぶ母校の関係者は一斉に泣いた。 
この後、一刻も早く野球部の復活を、というわけで、芋畑になっていたグランドを諸先生に頭を下げて回り、開放してもらった。                      そして私達OB有志の、毎日の地ならしやモッコかつぎで、でこぼこながらの野球部を再興した。
 上坂は、復活第一代の監督になり、野球部は二年後には県大会で優勝するまでになった。

静商同窓会関西支部  支部長 富坂誠二氏、提供